陵墓スタンプラリーの旅

歴代天皇の陵墓の参拝記録です。現在過去の参拝記録を元に日々更新中。

月輪陵天皇基礎情報




月輪陵に埋葬される12人の天皇に関する基礎情報です。
第87代_四條天皇,第108代_後水尾天皇,第109代_明正天皇,第110代_後光明天皇,第111代_後西天皇,第112代_霊元天皇,第113代_東山天皇,第114代_中御門天皇,第115代_櫻町天皇,第116代_桃園天皇,第117代_後櫻町天皇,第118代_後桃園天皇

月輪陵の記事は以下の記事を参照。
cynchroniciteen.hateblo.jp

第87代_四條天皇基礎情報

生  没 1231年3月17日-1242年2月10日
在  位 1232年11月17日-1242年2月10日
御  父 第86代_後堀河天皇(第一皇子)
御  母 九条道家の娘、中宮・九条竴子
諱    秀仁(みつひと)
エピソード 天皇の譲位に伴って2歳で即位、不慮の事故によりわずか12歳で崩御崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。父・後堀河天皇の兄はいずれも出家しており、自身には男兄弟がなく、後高倉院の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えた。執権北条泰時九条道家等の公卿達が推す順徳天皇皇子の忠成王(仲恭天皇の異母弟)を退け、土御門天皇皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたが、この際に11日間の空位期間が発生した。

第108代_後水尾天皇基礎情報

生  没 1596年6月29日-1680年9月11日
在  位 1611年5月9日-1629年12月22日
御  父 第107代_後陽成天皇(第三皇子)
御  母 関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子
諱    政仁(ことひと)
エピソード 後陽成天皇は第1皇子・良仁親王(覚深入道親王)を廃し、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいたが、関ヶ原の戦いで権力の座を手に入れた徳川家康が第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。徳川家康は孫娘・和子の入内を申し入れ入内宣旨が出されるが、家康の死去、後陽成院崩御で延期された。天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視され、関係者が配流、出仕停止となり、憤慨した天皇は譲位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。家光の乳母である春日局が無位無冠の身でありながら朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王明正天皇)に譲位した。昭和までは、歴代最長寿の天皇崩御時は法皇)でもあった。和歌約二千首を収める『後水尾院御集』がある。二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。

和歌

「よしや人 それにつけても 思ひしらば 思はむ方の よそにだにあれ」

第109代_明正天皇基礎情報

生  没 1624年1月9日-1696年12月4日
在  位 1629年12月22日-1643年11月14日
御  父 第108代_後水尾天皇(第二皇女)
御  母 太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子
諱    興子(おきこ)
エピソード 称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇。在位中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなく、女帝の存在や後水尾上皇院政皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り太上天皇となった。

第110代_後光明天皇基礎情報

生  没 1633年4月20日-1654年10月30日
在  位 1643年11月14日-1654年10月30日
御  父 第108代_後水尾天皇(第四皇子)
御  母 左大臣園基任の娘光子(壬生院)。養母は父帝の中宮徳川和子東福門院)。明正天皇は異母姉。
諱    紹仁(つぐひと)
エピソード 在位期間の12年は、将軍徳川家光から家綱の時代に相当し、東福門院徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。痘瘡により崩御天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重してこれを奨励した。初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初。また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。反対に、和歌や『伊勢物語』『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀再興に心を砕き神宮例幣の儀を再興した。釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。

第111代_後西天皇基礎情報

生  没 1638年1月1日-1685年3月26日
在  位 1655年1月5日-1663年3月5日
御  父 第108代_後水尾天皇(第八皇子)
御  母 典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘)
諱    良仁(ながひと)
エピソード 光明天皇崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、繋ぎとして1654年に即位10歳に成長した識仁親王に譲位。もっぱら学問に打ち込み、『水日集』や『源氏聞書』『百人一首聞書』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。 また茶道、華道、香道にも精通していた。

第112代_霊元天皇基礎情報

生  没 1654年7月9日-1732年9月24日
在  位 1663年3月5日-1687年5月2日
御  父 第108代_後水尾天皇(第十九皇子)
御  母 内大臣園基音の娘で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子東福門院
諱    識仁(さとひと)
エピソード 親政を開始すると、父の遺した路線を一歩進めて皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多かった。性格的に奔放な部分があり、側近の若い公家たちとともに問題行動を起こすこともあり、これを諌めた公卿が勅勘などの処分を受ける事例があった。朝仁親王東山天皇)へ譲位し、太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し、長年中断していた新天皇大嘗祭を行う。兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。 桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王でもある。霊元院の自筆の書は、近臣の手を経て、柳沢家などの極限られた大名家に伝世し、家宝として相伝されている。

和歌

「この道の 光もそひて のどけさを 世にしきしまの 春はきにけり」『人麿御奉納百首和歌』

第113代_東山天皇基礎情報

生  没 1675年10月21日-1710年1月16日
在  位 1687年5月6日-1709年7月27日
御  父 第112代_霊元天皇(第五皇子)
御  母 内大臣松木宗條の娘、典侍宗子(敬法門院)
諱    朝仁(あさひと)
エピソード 東山天皇の在位期間はいわゆる元禄時代に相当し、犬公方とよばれた徳川綱吉の将軍在職期間と重なっている。徳川綱吉は皇室を敬ったため、御料(皇室領)は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。1701年3月には、東山天皇が江戸へ派遣した勅使、柳原資廉・高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかるという松之大廊下の刃傷事件が発生する。近衛基熙の日記は、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたときの天皇の反応について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している。焼失した内裏の修理を行った浅野家に対し、後西天皇に対する譲位圧力など幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう吉良義央を、東山天皇は嫌っていたと見られる。また、帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行った。

第114代_中御門天皇基礎情報

生  没 1702年1月14日-1737年5月10日
在  位 1709年7月27日-1735年4月13日
御  父 第113代_東山天皇(第五皇子)
御  母 内大臣櫛笥隆賀の娘、典侍賀子(新崇賢門院)
諱    慶仁(やすひと)
エピソード 9歳で即位したため、はじめ父東山上皇が、ついで祖父霊元上皇院政を行った。 在位期間は、第6代将軍家宣から第8代の吉宗にかけての時代に相当し、この時代の幕府との関係は比較的良好で、閑院宮家創設が実現した。1729年には将軍吉宗自ら注文したベトナム広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けている。この際、象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させた。朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。また、笛や和歌、書道に秀で、特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っている。

和歌

拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇が詠んだ歌
「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」|

第115代_櫻町天皇基礎情報

生  没 1720年2月8日-1750年5月28日
在  位 1735年4月13日-1747年6月9日
御  父 第114代_中御門天皇(第一皇子)
御  母 母は関白太政大臣近衛家熙の娘、女御近衛尚子(新中和門院、徳川家宣の猶子)
諱    昭仁(てるひと)
エピソード 即位直後は朝遅く起き、昼近くに朝食を召し、夜遅くまで起き、学問より和歌や蹴鞠を好んだが、後に関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めた。神沢貞幹の『翁草』によると生まれが元旦でそのとき火事があり且つ実績も立派という共通点から聖徳太子の再来といわれ、歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ、御製は『桜町院御集』や『桜町院坊中御会和歌』としてまとめられている。また曽祖父・霊元天皇の御製を分類して『桃蕊類題(とうずいるいだい)』を残している。一乗院宮尊賞親王から入木道を伝授され、書にも優れた。

和歌

「煙たつ 民のかまどの にぎはふと 聞くを我が世の たのしみにして」(即位の際の一首)

第116代_桃園天皇基礎情報

生  没 1741年4月14日-1762年8月31日
在  位 1747年6月9日-1762年8月31日
御  父 第115代_桜町天皇(第一皇子)
御  母 生母は権大納言姉小路実武の娘で典侍藤原定子開明門院)。父の嫡妻、二条舎子(青綺門院)の「実子」としてその御所で育てられた。
諱    遐仁(とおひと)
エピソード 幼少より学問を好み、16歳には竹内式部の進講を受け始め、これが宝暦事件の発端となる。摂関家では若い当主が相次いだため、他家の公家たちが不満を抱くようになっており、垂加神道(従来の神道儒学を統合した神道)を学んだ竹内式部(たけのうちしきぶ)が現れ、若い公家たちに天皇を尊重する尊王論を説いてまわった。このことが、、平穏を保っていた朝廷と幕府の関係を乱すものとして問題視され、桃園天皇の養母や関白らが説得し講義が中止されることに。関白らは竹内式部の弟子たちを一斉処分し、竹内式部を京都から追放した。桃園天皇はこの対応に不満を持ち、22歳で亡くなるまで摂関家と対立を続けた。

第117代_後櫻町天皇基礎情報

生  没 1740年9月23日-1813年12月24日
在  位 1762年9月15日-1771年1月9日
御  父 第115代_桜町天皇(第二皇女)
御  母 関白左大臣二条吉忠の娘で桜町女御の藤原舎子(青綺門院)
諱    智子(としこ)
エピソード 明正天皇以来119年ぶりの女帝。五摂家の当主が秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請した。即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御は譲位直前の1度だけであった。譲位後は、たびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会し、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。古今伝授に名を連ねる歌道の名人で、文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した

和歌

「陰あふぐ たかつの山は 春来ぬと まだきのどかに かすみそめぬる」(『天皇宸翰五葉以下五十葉』)

第118代_後桃園天皇基礎情報

生  没 1758年8月5日-1779年12月6日
在  位 1771年1月9日-1779年12月6日
御  父 第116代_桃園天皇(第一皇子)
御  母 関白太政大臣一条兼香の娘で桃園女御の恭礼門院・藤原富子
諱    英仁(ひでひと)
エピソード 1768年4月6日に立太子したが、皇太子が天皇の子(皇子)でないのは後亀山天皇以来400年ぶり。病気がちであり在位のまま22歳で崩御。子が欣子内親王のみであったので、急遽閑院宮家より養子を迎え、光格天皇として即位させた。欣子内親王はのちに光格天皇中宮となった。