深草十二帝基礎情報
深草北陵に埋葬される12人の天皇に関する基礎情報です。
深草北陵の記事は以下の記事を参照。
cynchroniciteen.hateblo.jp
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- 第89代_後深草天皇基礎情報
- 第92代_伏見天皇基礎情報
- 第93代_後伏見天皇基礎情報
- 北朝4代_後光厳天皇基礎情報
- 北朝5代_後円融天皇天皇基礎情報
- 第100代_後小松天皇基礎情報
- 第101代_称光天皇基礎情報
- 第103代_後土御門天皇基礎情報
- 第104代_後柏原天皇基礎情報
- 第105代_後奈良天皇基礎情報
- 第106代_正親町(おおぎまち)天皇基礎情報
- 第107代_後陽成天皇基礎情報
第89代_後深草天皇基礎情報
生 没 | 1243年6月28日-1304年8月17日 |
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在 位 | 1246年2月16日-1260年1月9日 |
御 父 | 第88代後嵯峨天皇(第二皇子) |
御 母 | 西園寺姞子(大宮院) |
諱 | 久仁(ひさひと) |
エピソード | 持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。愛人に『とはずがたり』の作者とされて後深草院二条がいる。鎌倉時代初期の女流歌人である後深草院少将内侍は幼少期から出仕していた。 |
第92代_伏見天皇基礎情報
生 没 | 1265年5月10日-1317年10月8日 |
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在 位 | 1287年11月27日-1298年8月30日 |
御 父 | 第89代_後深草天皇(第二皇子) |
御 母 | 左大臣洞院実雄の娘・愔子(玄輝門院) |
諱 | 熈仁(ひろひと) |
エピソード | 日本史上随一の能書帝であり、書道の伏見院流の祖。京極派の有力歌人としても知られ、治天中の勅撰和歌集に『玉葉和歌集』がある。御製も多く「新後撰集」以下の勅撰和歌集に245首が選ばれている。 |
第93代_後伏見天皇基礎情報
生 没 | 1288年4月5日-1336年5月17日 |
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在 位 | 1298年8月30日-1301年3月2日 |
御 父 | 第92代_伏見天皇(第一皇子) |
御 母 | 参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子 |
諱 | 胤仁(たねひと) |
エピソード | 数え2歳で立太子し、父・伏見天皇からの譲位で11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、1301年大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位した。 |
和歌
花鳥の なさけまでをぞ 思ひこむる 夕山ふかき 春のかすみに(風雅和歌集)
花や鳥の情趣までをも含み込んでいるかのように、その色や声を感じ取ることだよ。夕暮の山の深い春霞のうちに
北朝4代_後光厳天皇基礎情報
生 没 | 1338年3月23日-1374年3月12日 |
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在 位 | 1352年9月25日-1371年4月9日 |
御 父 | 北朝初代_光厳天皇(第二皇子) |
御 母 | 正親町三条公秀の娘、陽禄門院・正親町三条秀子 |
諱 | 弥仁(いやひと) |
エピソード | 北朝を擁する足利尊氏が南朝に帰順し、皇統が南朝へ統一される正平一統が成立する。翌年南朝が京を軍事的に制圧して足利義詮を追い、正平一統は破綻。北朝は京都を奪還するものの、南朝が撤退する際に北朝の光厳上皇(父)、光明上皇(叔父)、崇光上皇(兄)及び皇太子の直仁親王を吉野へ連行する。 三上皇の拉致により、北朝は公事が停止し、院宣を発する治天の君や三種の神器も無い状態であった。廷臣に擁立されて即位した古代の継体天皇の先例を引照して、弥仁は践祚し、後光厳天皇として即位する。神器なしで即位した後光厳はこれ以後、不完全な天皇というコンプレックスがつきまとった。 |
北朝5代_後円融天皇天皇基礎情報
生 没 | 1359年1月11日-1393年6月6日 |
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在 位 | 1371年4月9日-1382年5月24日 |
御 父 | 北朝4代_後光厳天皇(第二皇子) |
御 母 | 左大臣広橋兼綱の養女、崇賢門院・藤原仲子 |
諱 | 緒仁(おひと) |
エピソード | 将軍足利義満の執奏により新後拾遺和歌集の撰進を命ず。 |
和歌
「桜花 いまや咲くらむ み吉野の 山も霞みて 春雨ぞふる」(『新後拾遺』)
桜の花はもう咲いているだろうか。吉野の山も霞んで春雨が降っていることよ。
第100代_後小松天皇基礎情報
生 没 | 1377年8月1日-1433年12月1日 |
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在 位 | 1382年5月24日-1412年10月5日 |
御 父 | 北朝第5代_後円融天皇(第一皇子) |
御 母 | 参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子 |
諱 | 幹仁(もとひと) |
エピソード | 六歳で父・後円融天皇から位を譲られ即位。室町幕府の最盛期の三代将軍義満の時代と重なっていたため、政治を行う力はなかった。北朝と南朝が講和をはかり、北朝が神器を取り戻した成果もある。 |
第101代_称光天皇基礎情報
生 没 | 1401年5月12日-1428年8月30日 |
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在 位 | 1412年10月5日-11428年8月30日 |
御 父 | 第100代_後小松天皇(第一皇子) |
御 母 | 権大納言日野資教の養女、光範門院・藤原資子 |
諱 | 躬仁(みひと)、のち實仁(みひと) |
エピソード | 12才で即位するも、父後小松上皇の院政が続き、政治の表舞台に出ることはなかった。晩年は生来の病弱に加え、弟の休止や父との不和が続き、精神に不調をきたした。 |
第103代_後土御門天皇基礎情報
生 没 | 1442年7月3日-1500年10月21日 |
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在 位 | 1464年8月21日-1500年10月21日 |
御 父 | 第100代_後花園天皇(第一皇子) |
御 母 | 生母は出身身分が低い伊与局。生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた。 |
諱 | 成仁(ふさひと) |
エピソード | 践祚後応仁の乱が起き、朝廷の財源は枯渇して衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第で10年間避難生活し、避難生活中には、義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通して皇女を出産、富子との密通も噂された。応仁の乱の最中にも義政が度々室町第で酒宴を開いていたとされが、常に天皇が同席していた。義政も後土御門天皇も和歌を極めて好んだので、戦乱の世にあっても同邸では歌会が頻繁に催された。乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、朝廷に譲位の儀式のため費用がなかったためとされる。葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった。 |
和歌
「朝まだき 春のものとて 天の原 ふりさけみれば 霞みそめつつ」(『紅塵灰集』)
夜の明けきらぬ頃、天空を仰ぎ見れば、春という季節ならではのものとして、早くも霞が立ち始めていて
第104代_後柏原天皇基礎情報
生 没 | 1464年11月19日-1526年5月18日 |
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在 位 | 1500年11月16日-1526年5月18日 |
御 父 | 第103代_後土御門天皇(第一皇子) |
御 母 | 庭田朝子 |
諱 | 勝仁(かつひと) |
エピソード | 応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、践祚後21年後に即位の礼をあげた。公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏、天皇の権威は地に落ちた時代だったが、朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。 |
和歌
「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」
わが身の罪がいかに多いか 鏡にはすべて映しだされようが われはひたすら望む 心だけでも浄土を目指そうと
第105代_後奈良天皇基礎情報
生 没 | 1497年1月26日-1557年9月27日 |
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在 位 | 1526年6月9日-1557年9月27日 |
御 父 | 第104代_後柏原天皇(第一皇子) |
御 母 | 勧修寺藤子 |
諱 | 知仁(ともひと) |
エピソード | 朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、践祚から10年後に紫宸殿にて即位式を行う事ができた。宸筆の書を売って収入の足しにしていた。清廉な人柄で、一条房冬を左近衛大将に任命した際に、秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知り献金を突き返した。。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』がある。なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』(ごならいんぎょせんなぞ、ごならいんごせんなぞ)は、貴重な文学資料でもある。 フランシスコ・ザビエル は、京都で後奈良帝当時の御所の荒廃を嘆く文を遺している。 |
和歌
「花散りし 木ぶかき陰の わかみどり 茂るいろより 夏はきにけり」
華やかな花が散った後に樹々の陰に萌え出るみどりの瑞々しさ。生命力豊かに緑が茂るところから夏がやって来るのだなあ
第106代_正親町(おおぎまち)天皇基礎情報
生 没 | 1517年6月18日-1593年2月6日 |
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在 位 | 1557年11月17日-1586年12月17日 |
御 父 | 第105代_後奈良天皇(第一皇子) |
御 母 | 藤原栄子 |
諱 | 方仁(みちひと) |
エピソード | 1559年安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受け1560年1月27日に即位の礼を挙げることができた。本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられ、以後、本願寺の権勢が増した。1568年、織田信長は正親町天皇を保護するという大義名分により京都を制圧し、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を用い、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。イエズス会の宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した。1573年頃から信長に存在を疎まれるようになり、譲位を要求されるようになるがそれを最後まで拒んだ。本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのもこのことによる。 |
和歌
「千とせをも 色香にこめて 幾秋か 花にさきいづる 庭の白菊」(『宸翰集』)|
来るべき千年をも色と香に籠めて、これから幾秋かけて花と咲き出ずるのだろう、庭の白菊よ。
第107代_後陽成天皇基礎情報
生 没 | 1571年12月31日- 1617年9月25日 |
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在 位 | 1586年12月17日- 1611年5月9日 |
御 父 | 誠仁親王 |
御 母 | 勧修寺晴子(新上東門院) |
諱 | 初め和仁(かずひと)、1598年に周仁(かたひと)と改めた |
エピソード | 豊臣政権の天下統一から江戸幕府成立の時期で、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、朝廷の威信回復に尽力した。1603年家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれた。朝廷権威の抑制をはかる幕府は武家伝奏を設けて監視態勢を整えた。 1611年退位に反対する幕府を押し切り、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して仙洞御所へ退く。葬儀は火葬で行われた。現在において最後に火葬で葬られた天皇である。 |