第119代_光格天皇・第120代_仁孝天皇_後月輪陵
※月輪陵・後月輪陵と分かれていますが、遙拝所・御陵印とも月輪陵と共通です。
泉涌寺大門から入り、右奥に月輪陵・後月輪陵があります。
第119代_光格天皇基礎情報
生 没 | 1771年9月23日-1840年12月11日 |
---|---|
在 位 | 1780年1月1日-1817年5月7日 |
御 父 | 閑院宮典仁親王(第六皇子) |
御 母 | 大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘) |
諱 | 初め師仁(もろひと)と称したが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた |
エピソード | 江戸時代の天皇のなかで、唯一天皇の子として生まれていない。傍系の閑院宮の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。 |
和歌
しきしまの 道は神代の みちなれば いにしへ今に いや榮えつつ
第120代_仁孝天皇基礎情報
生 没 | 1800年3月16日-1846年2月21日 |
---|---|
在 位 | 1817年10月31日-1846年2月21日 |
御 父 | 第119代光格天皇(第六皇子) |
御 母 | 実母は勧修寺大納言経逸の女、藤原婧子(東京極院)、養母は後桃園天皇の第一皇女、光格中宮の欣子内親王(新清和院) |
諱 | 諱は恵仁(あやひと) |
エピソード | 皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。崩御の翌1847年、天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。 |
和歌
石見野や 高津のみやに たつ霞 めぐみの春の ひかり見せつゝ
アクセス
JR・京阪・市バス「東福寺」下車し南へ徒歩15分。京阪「鳥羽街道」駅から徒歩10分程度。
泉涌寺大門から入り、右奥に月輪陵・後月輪陵があります。