陵墓スタンプラリーの旅

歴代天皇の陵墓の参拝記録です。現在過去の参拝記録を元に日々更新中。

第38代_天智天皇_山科陵




天皇基礎情報

生  没 626年-672年1月7日
在  位 668年2月20日-672年1月7日
御  父 第34代舒明天皇(第二皇子)
御  母 皇極天皇重祚して斉明天皇
諱    葛城(かづらき/かつらぎ)
エピソード

乙巳の変で、中臣鎌足らと謀り蘇我入鹿を暗殺する。皇極天皇の同母弟孝徳天皇を即位させ、自分は皇太子となり中心人物として大化の改新を行なった。百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦。 667年4月17日近江大津宮へ遷都し、668年2月20日即位した。即位後、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制の土台を築いていった。 皇子時代の660年、漏刻(水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始した。近江大津宮崩御されたと云われているが、扶桑略記では山中で行方不明になり、沓の落ちていた場所を陵とした、ともある。|

和歌

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人として知られ、百人一首の冒頭に以下の歌が載せられている。
「秋の田の かりほのいほの 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
(秋の田んぼに建つ仮の小屋は編み目が粗い。番をする私の衣の袖は夜露に濡れているよ)
大海皇子と額田王との関係の象徴の歌として伝わる。
「香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくなるらし 古へも しかなれこそ うつせみも 褄を 争ふらしき」
(香具山が畝傍山の愛を得ようと争ったように、いまでも一人の愛を二人で争うことがあるらしい)

アクセス


京阪・市営地下鉄「御陵」下車し東へ0.4km。入口の拝礼所までは徒歩5分。そこから参道を5分程歩く。
山科駅からは、東海道を経由し徒歩15分程度。
拝礼所から陵墓までの途中に、琵琶湖疎水の看板があったので、疎水経由でもアクセス可能。地図上では、陵墓のすぐ裏を疎水が流れているが、裏側から立ち入ることはできない。迂回が必要と思われる。

周辺の環境


入口は住宅街にあるが、敷地が広く林の中を歩いて行くため、陵墓自体は山の麓にある感じ。

入口脇には、石で作られた日時計が置かれています。

玉石の平らな道を少し歩くと、林の中へ入る門が見えてきます。

まっすぐ歩きます。

林を抜けるとぱっと開けたところに、陵墓があります。

陵墓基礎情報

所在地 京都府京都市山科区御陵上御廟野町
拝観時間 常時参拝可能
タイプ 山の下静寂タイプ
陵形 上円下方
陵印保管場所 月輪陵墓監区事務所

周辺スポット

併せて参拝がおすすめの天皇

観光スポット

琵琶湖疎水

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琵琶湖から京都へ水を流すため、明治時代に作られた水路です。水が流れているということは、琵琶湖の方が標高が高いんですよね。
発電や水運としても利用されていて、2018年には大津-蹴上間で観光船の運航が復活したようです。
www.biwako-sosui.jp

琵琶湖疎水の中でも、山科疏水は四ノ宮から日ノ岡までの約4.2キロの遊歩道となっていて、桜の季節は地元の人にとっての桜の名所です。

日ノ岡ホッパラ町


観光スポットではないのですが、変わった名前の町名で、しかも飛び地です。
由来は複数あり、

  1. 九条山にあった粟田口刑場で斬首刑された人の死体を埋める「掘原」場所だった
  2. 日ノ岡峠を整備する際に出てきた土砂をほっぽった
  3. 琵琶湖疎水を運行していた船をほっぽって置いておいた

などです。
個人的には、町の形が船に似ているので、船をほっぽっておいた説派です。
この辺りのは、ほかにも「御陵血洗町」というなんともおどろおどろしい地名もあり、地図好きの方は、地図を片手に歩いてみるのも良いと思います。
ただし、地図を見なければ、普通の住宅街でしかありません。

毘沙門堂

山科の観光名所です。琵琶湖疎水を登っていったところにあり、桜と紅葉の名所として有名です。
www.bishamon.or.jpf:id:cynchroniciteen:20191128150854j:plain