般若心経の写経と和綴じ
写経を思い立ったのは、後奈良天皇に対する天皇陛下のお言葉に触れたのがきっかけ
後奈良天皇について調べていたとき、2017年に当時の皇太子様が愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた際に、飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経を触れ、次のような発言をされた記事を見つけました。
奥書には「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。災害や疫病の流行に対して、般若心経を写経して奉納された例は、平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め、鎌倉時代の後嵯峨天皇、伏見天皇、南北朝時代の北朝の後光厳天皇、室町時代の後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、そして今お話した後奈良天皇などが挙げられます。私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両殿下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います
3年ぐらい前に、機会があれば日常的に写経を行うのもよいかなと、漠然と考え、書道道具一式と、般若心経の写経のお手本は手に入れていました。
この記事に触れ、こんな時期だからこそやってみようかなあと思い、3年の時を経て、書道道具を開封し、写経に挑戦しました。
写経のやり方
半紙の下に見本を置いて、ただ、見本の通りに写経するだけです。
以前手に入れていた「和綴じで綴じる写経入門」の見本をコピーして使いました。
和綴じで綴じる 写経入門―すぐに始められるキットつき (いまから始める大人の趣味入門)
- 作者:彼岸寺
- 発売日: 2010/05/28
- メディア: 大型本
ネット上には、写経用の見本の画像やPDFもあるので、それを使ってもよいと思います。
写経の実践
細筆はコントロールが難しく、腕が震えてしまい、線がまっすぐ引けません。
スピードを速めれば線はまっすぐになりますが、文字が大きくなる傾向にあり、雑になってしまいます。
墨汁も、付けすぎるとにじむし、足りないと途中でかさかさになります。
最初は、とにかく、自分の下手さ加減に嫌気が差しました。
30分くらい続けていると、時々ですが、線の運びを最初から最後まで意識し、まっすぐに線を引けることがありました。
隅々まで意識を行き渡らせ、丁寧に文字を書く感じです。
見た目が上手かというとそういうわけでもないのですが、ひとつひとつの線を同じ早さで、最初から最後までコントロールしてかけている感触です。
そんな感じで、般若心経を模写するのにかかった時間は70分でした。
これが、以外とあっという間です。
だいたい、70分くらいで終わりました。
月輪陵天皇基礎情報
第87代_四條天皇,第108代_後水尾天皇,第109代_明正天皇,第110代_後光明天皇,第111代_後西天皇,第112代_霊元天皇,第113代_東山天皇,第114代_中御門天皇,第115代_櫻町天皇,第116代_桃園天皇,第117代_後櫻町天皇,第118代_後桃園天皇
月輪陵の記事は以下の記事を参照。
cynchroniciteen.hateblo.jp
- 第87代_四條天皇基礎情報
- 第108代_後水尾天皇基礎情報
- 第109代_明正天皇基礎情報
- 第110代_後光明天皇基礎情報
- 第111代_後西天皇基礎情報
- 第112代_霊元天皇基礎情報
- 第113代_東山天皇基礎情報
- 第114代_中御門天皇基礎情報
- 第115代_櫻町天皇基礎情報
- 第116代_桃園天皇基礎情報
- 第117代_後櫻町天皇基礎情報
- 第118代_後桃園天皇基礎情報
第87代_四條天皇基礎情報
生 没 | 1231年3月17日-1242年2月10日 |
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在 位 | 1232年11月17日-1242年2月10日 |
御 父 | 第86代_後堀河天皇(第一皇子) |
御 母 | 九条道家の娘、中宮・九条竴子 |
諱 | 秀仁(みつひと) |
エピソード | 父天皇の譲位に伴って2歳で即位、不慮の事故によりわずか12歳で崩御。崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。父・後堀河天皇の兄はいずれも出家しており、自身には男兄弟がなく、後高倉院の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えた。執権北条泰時は九条道家等の公卿達が推す順徳天皇皇子の忠成王(仲恭天皇の異母弟)を退け、土御門天皇皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたが、この際に11日間の空位期間が発生した。 |
第108代_後水尾天皇基礎情報
生 没 | 1596年6月29日-1680年9月11日 |
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在 位 | 1611年5月9日-1629年12月22日 |
御 父 | 第107代_後陽成天皇(第三皇子) |
御 母 | 関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子 |
諱 | 政仁(ことひと) |
エピソード | 後陽成天皇は第1皇子・良仁親王(覚深入道親王)を廃し、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいたが、関ヶ原の戦いで権力の座を手に入れた徳川家康が第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。徳川家康は孫娘・和子の入内を申し入れ入内宣旨が出されるが、家康の死去、後陽成院の崩御で延期された。天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視され、関係者が配流、出仕停止となり、憤慨した天皇は譲位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。家光の乳母である春日局が無位無冠の身でありながら朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した。昭和までは、歴代最長寿の天皇(崩御時は法皇)でもあった。和歌約二千首を収める『後水尾院御集』がある。二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。 |
和歌
「よしや人 それにつけても 思ひしらば 思はむ方の よそにだにあれ」
第109代_明正天皇基礎情報
生 没 | 1624年1月9日-1696年12月4日 |
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在 位 | 1629年12月22日-1643年11月14日 |
御 父 | 第108代_後水尾天皇(第二皇女) |
御 母 | 太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子 |
諱 | 興子(おきこ) |
エピソード | 称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇。在位中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなく、女帝の存在や後水尾上皇の院政、皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇の外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り太上天皇となった。 |
第110代_後光明天皇基礎情報
生 没 | 1633年4月20日-1654年10月30日 |
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在 位 | 1643年11月14日-1654年10月30日 |
御 父 | 第108代_後水尾天皇(第四皇子) |
御 母 | 贈左大臣園基任の娘光子(壬生院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。明正天皇は異母姉。 |
諱 | 紹仁(つぐひと) |
エピソード | 在位期間の12年は、将軍徳川家光から家綱の時代に相当し、東福門院(徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。痘瘡により崩御。天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重してこれを奨励した。初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初。また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。反対に、和歌や『伊勢物語』『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀再興に心を砕き神宮例幣の儀を再興した。釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。 |
第111代_後西天皇基礎情報
生 没 | 1638年1月1日-1685年3月26日 |
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在 位 | 1655年1月5日-1663年3月5日 |
御 父 | 第108代_後水尾天皇(第八皇子) |
御 母 | 典侍の逢春門院・藤原隆子(左中将櫛笥隆致の娘) |
諱 | 良仁(ながひと) |
エピソード | 後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、繋ぎとして1654年に即位10歳に成長した識仁親王に譲位。もっぱら学問に打ち込み、『水日集』や『源氏聞書』『百人一首聞書』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。 また茶道、華道、香道にも精通していた。 |
第112代_霊元天皇基礎情報
生 没 | 1654年7月9日-1732年9月24日 |
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在 位 | 1663年3月5日-1687年5月2日 |
御 父 | 第108代_後水尾天皇(第十九皇子) |
御 母 | 内大臣園基音の娘で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院) |
諱 | 識仁(さとひと) |
エピソード | 親政を開始すると、父の遺した路線を一歩進めて皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多かった。性格的に奔放な部分があり、側近の若い公家たちとともに問題行動を起こすこともあり、これを諌めた公卿が勅勘などの処分を受ける事例があった。朝仁親王(東山天皇)へ譲位し、太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し、長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。 桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王でもある。霊元院の自筆の書は、近臣の手を経て、柳沢家などの極限られた大名家に伝世し、家宝として相伝されている。 |
和歌
「この道の 光もそひて のどけさを 世にしきしまの 春はきにけり」『人麿御奉納百首和歌』
第113代_東山天皇基礎情報
生 没 | 1675年10月21日-1710年1月16日 |
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在 位 | 1687年5月6日-1709年7月27日 |
御 父 | 第112代_霊元天皇(第五皇子) |
御 母 | 内大臣松木宗條の娘、典侍宗子(敬法門院) |
諱 | 朝仁(あさひと) |
エピソード | 東山天皇の在位期間はいわゆる元禄時代に相当し、犬公方とよばれた徳川綱吉の将軍在職期間と重なっている。徳川綱吉は皇室を敬ったため、御料(皇室領)は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。1701年3月には、東山天皇が江戸へ派遣した勅使、柳原資廉・高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかるという松之大廊下の刃傷事件が発生する。近衛基熙の日記は、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたときの天皇の反応について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している。焼失した内裏の修理を行った浅野家に対し、後西天皇に対する譲位圧力など幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう吉良義央を、東山天皇は嫌っていたと見られる。また、帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行った。 |
第114代_中御門天皇基礎情報
生 没 | 1702年1月14日-1737年5月10日 |
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在 位 | 1709年7月27日-1735年4月13日 |
御 父 | 第113代_東山天皇(第五皇子) |
御 母 | 内大臣櫛笥隆賀の娘、典侍賀子(新崇賢門院) |
諱 | 慶仁(やすひと) |
エピソード | 9歳で即位したため、はじめ父東山上皇が、ついで祖父霊元上皇が院政を行った。 在位期間は、第6代将軍家宣から第8代の吉宗にかけての時代に相当し、この時代の幕府との関係は比較的良好で、閑院宮家創設が実現した。1729年には将軍吉宗自ら注文したベトナム広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けている。この際、象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させた。朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。また、笛や和歌、書道に秀で、特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っている。 |
和歌
拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇が詠んだ歌
「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」|
第115代_櫻町天皇基礎情報
生 没 | 1720年2月8日-1750年5月28日 |
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在 位 | 1735年4月13日-1747年6月9日 |
御 父 | 第114代_中御門天皇(第一皇子) |
御 母 | 母は関白太政大臣近衛家熙の娘、女御近衛尚子(新中和門院、徳川家宣の猶子) |
諱 | 昭仁(てるひと) |
エピソード | 即位直後は朝遅く起き、昼近くに朝食を召し、夜遅くまで起き、学問より和歌や蹴鞠を好んだが、後に関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めた。神沢貞幹の『翁草』によると生まれが元旦でそのとき火事があり且つ実績も立派という共通点から聖徳太子の再来といわれ、歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ、御製は『桜町院御集』や『桜町院坊中御会和歌』としてまとめられている。また曽祖父・霊元天皇の御製を分類して『桃蕊類題(とうずいるいだい)』を残している。一乗院宮尊賞親王から入木道を伝授され、書にも優れた。 |
和歌
「煙たつ 民のかまどの にぎはふと 聞くを我が世の たのしみにして」(即位の際の一首)
第116代_桃園天皇基礎情報
生 没 | 1741年4月14日-1762年8月31日 |
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在 位 | 1747年6月9日-1762年8月31日 |
御 父 | 第115代_桜町天皇(第一皇子) |
御 母 | 生母は権大納言姉小路実武の娘で典侍の藤原定子(開明門院)。父の嫡妻、二条舎子(青綺門院)の「実子」としてその御所で育てられた。 |
諱 | 遐仁(とおひと) |
エピソード | 幼少より学問を好み、16歳には竹内式部の進講を受け始め、これが宝暦事件の発端となる。摂関家では若い当主が相次いだため、他家の公家たちが不満を抱くようになっており、垂加神道(従来の神道と儒学を統合した神道)を学んだ竹内式部(たけのうちしきぶ)が現れ、若い公家たちに天皇を尊重する尊王論を説いてまわった。このことが、、平穏を保っていた朝廷と幕府の関係を乱すものとして問題視され、桃園天皇の養母や関白らが説得し講義が中止されることに。関白らは竹内式部の弟子たちを一斉処分し、竹内式部を京都から追放した。桃園天皇はこの対応に不満を持ち、22歳で亡くなるまで摂関家と対立を続けた。 |
第117代_後櫻町天皇基礎情報
生 没 | 1740年9月23日-1813年12月24日 |
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在 位 | 1762年9月15日-1771年1月9日 |
御 父 | 第115代_桜町天皇(第二皇女) |
御 母 | 関白左大臣二条吉忠の娘で桜町女御の藤原舎子(青綺門院) |
諱 | 智子(としこ) |
エピソード | 明正天皇以来119年ぶりの女帝。五摂家の当主が秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請した。即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御は譲位直前の1度だけであった。譲位後は、たびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会し、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。古今伝授に名を連ねる歌道の名人で、文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した |
和歌
「陰あふぐ たかつの山は 春来ぬと まだきのどかに かすみそめぬる」(『天皇宸翰五葉以下五十葉』)
深草十二帝基礎情報
深草北陵の記事は以下の記事を参照。
cynchroniciteen.hateblo.jp
- 第89代_後深草天皇基礎情報
- 第92代_伏見天皇基礎情報
- 第93代_後伏見天皇基礎情報
- 北朝4代_後光厳天皇基礎情報
- 北朝5代_後円融天皇天皇基礎情報
- 第100代_後小松天皇基礎情報
- 第101代_称光天皇基礎情報
- 第103代_後土御門天皇基礎情報
- 第104代_後柏原天皇基礎情報
- 第105代_後奈良天皇基礎情報
- 第106代_正親町(おおぎまち)天皇基礎情報
- 第107代_後陽成天皇基礎情報
第89代_後深草天皇基礎情報
生 没 | 1243年6月28日-1304年8月17日 |
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在 位 | 1246年2月16日-1260年1月9日 |
御 父 | 第88代後嵯峨天皇(第二皇子) |
御 母 | 西園寺姞子(大宮院) |
諱 | 久仁(ひさひと) |
エピソード | 持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。愛人に『とはずがたり』の作者とされて後深草院二条がいる。鎌倉時代初期の女流歌人である後深草院少将内侍は幼少期から出仕していた。 |
第92代_伏見天皇基礎情報
生 没 | 1265年5月10日-1317年10月8日 |
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在 位 | 1287年11月27日-1298年8月30日 |
御 父 | 第89代_後深草天皇(第二皇子) |
御 母 | 左大臣洞院実雄の娘・愔子(玄輝門院) |
諱 | 熈仁(ひろひと) |
エピソード | 日本史上随一の能書帝であり、書道の伏見院流の祖。京極派の有力歌人としても知られ、治天中の勅撰和歌集に『玉葉和歌集』がある。御製も多く「新後撰集」以下の勅撰和歌集に245首が選ばれている。 |
第93代_後伏見天皇基礎情報
生 没 | 1288年4月5日-1336年5月17日 |
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在 位 | 1298年8月30日-1301年3月2日 |
御 父 | 第92代_伏見天皇(第一皇子) |
御 母 | 参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子 |
諱 | 胤仁(たねひと) |
エピソード | 数え2歳で立太子し、父・伏見天皇からの譲位で11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、1301年大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位した。 |
和歌
花鳥の なさけまでをぞ 思ひこむる 夕山ふかき 春のかすみに(風雅和歌集)
花や鳥の情趣までをも含み込んでいるかのように、その色や声を感じ取ることだよ。夕暮の山の深い春霞のうちに
北朝4代_後光厳天皇基礎情報
生 没 | 1338年3月23日-1374年3月12日 |
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在 位 | 1352年9月25日-1371年4月9日 |
御 父 | 北朝初代_光厳天皇(第二皇子) |
御 母 | 正親町三条公秀の娘、陽禄門院・正親町三条秀子 |
諱 | 弥仁(いやひと) |
エピソード | 北朝を擁する足利尊氏が南朝に帰順し、皇統が南朝へ統一される正平一統が成立する。翌年南朝が京を軍事的に制圧して足利義詮を追い、正平一統は破綻。北朝は京都を奪還するものの、南朝が撤退する際に北朝の光厳上皇(父)、光明上皇(叔父)、崇光上皇(兄)及び皇太子の直仁親王を吉野へ連行する。 三上皇の拉致により、北朝は公事が停止し、院宣を発する治天の君や三種の神器も無い状態であった。廷臣に擁立されて即位した古代の継体天皇の先例を引照して、弥仁は践祚し、後光厳天皇として即位する。神器なしで即位した後光厳はこれ以後、不完全な天皇というコンプレックスがつきまとった。 |
北朝5代_後円融天皇天皇基礎情報
生 没 | 1359年1月11日-1393年6月6日 |
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在 位 | 1371年4月9日-1382年5月24日 |
御 父 | 北朝4代_後光厳天皇(第二皇子) |
御 母 | 左大臣広橋兼綱の養女、崇賢門院・藤原仲子 |
諱 | 緒仁(おひと) |
エピソード | 将軍足利義満の執奏により新後拾遺和歌集の撰進を命ず。 |
和歌
「桜花 いまや咲くらむ み吉野の 山も霞みて 春雨ぞふる」(『新後拾遺』)
桜の花はもう咲いているだろうか。吉野の山も霞んで春雨が降っていることよ。
第100代_後小松天皇基礎情報
生 没 | 1377年8月1日-1433年12月1日 |
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在 位 | 1382年5月24日-1412年10月5日 |
御 父 | 北朝第5代_後円融天皇(第一皇子) |
御 母 | 参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子 |
諱 | 幹仁(もとひと) |
エピソード | 六歳で父・後円融天皇から位を譲られ即位。室町幕府の最盛期の三代将軍義満の時代と重なっていたため、政治を行う力はなかった。北朝と南朝が講和をはかり、北朝が神器を取り戻した成果もある。 |
第101代_称光天皇基礎情報
生 没 | 1401年5月12日-1428年8月30日 |
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在 位 | 1412年10月5日-11428年8月30日 |
御 父 | 第100代_後小松天皇(第一皇子) |
御 母 | 権大納言日野資教の養女、光範門院・藤原資子 |
諱 | 躬仁(みひと)、のち實仁(みひと) |
エピソード | 12才で即位するも、父後小松上皇の院政が続き、政治の表舞台に出ることはなかった。晩年は生来の病弱に加え、弟の休止や父との不和が続き、精神に不調をきたした。 |
第103代_後土御門天皇基礎情報
生 没 | 1442年7月3日-1500年10月21日 |
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在 位 | 1464年8月21日-1500年10月21日 |
御 父 | 第100代_後花園天皇(第一皇子) |
御 母 | 生母は出身身分が低い伊与局。生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた。 |
諱 | 成仁(ふさひと) |
エピソード | 践祚後応仁の乱が起き、朝廷の財源は枯渇して衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第で10年間避難生活し、避難生活中には、義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通して皇女を出産、富子との密通も噂された。応仁の乱の最中にも義政が度々室町第で酒宴を開いていたとされが、常に天皇が同席していた。義政も後土御門天皇も和歌を極めて好んだので、戦乱の世にあっても同邸では歌会が頻繁に催された。乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、朝廷に譲位の儀式のため費用がなかったためとされる。葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった。 |
和歌
「朝まだき 春のものとて 天の原 ふりさけみれば 霞みそめつつ」(『紅塵灰集』)
夜の明けきらぬ頃、天空を仰ぎ見れば、春という季節ならではのものとして、早くも霞が立ち始めていて
第104代_後柏原天皇基礎情報
生 没 | 1464年11月19日-1526年5月18日 |
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在 位 | 1500年11月16日-1526年5月18日 |
御 父 | 第103代_後土御門天皇(第一皇子) |
御 母 | 庭田朝子 |
諱 | 勝仁(かつひと) |
エピソード | 応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、践祚後21年後に即位の礼をあげた。公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏、天皇の権威は地に落ちた時代だったが、朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。 |
和歌
「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」
わが身の罪がいかに多いか 鏡にはすべて映しだされようが われはひたすら望む 心だけでも浄土を目指そうと
第105代_後奈良天皇基礎情報
生 没 | 1497年1月26日-1557年9月27日 |
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在 位 | 1526年6月9日-1557年9月27日 |
御 父 | 第104代_後柏原天皇(第一皇子) |
御 母 | 勧修寺藤子 |
諱 | 知仁(ともひと) |
エピソード | 朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、践祚から10年後に紫宸殿にて即位式を行う事ができた。宸筆の書を売って収入の足しにしていた。清廉な人柄で、一条房冬を左近衛大将に任命した際に、秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知り献金を突き返した。。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』がある。なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』(ごならいんぎょせんなぞ、ごならいんごせんなぞ)は、貴重な文学資料でもある。 フランシスコ・ザビエル は、京都で後奈良帝当時の御所の荒廃を嘆く文を遺している。 |
和歌
「花散りし 木ぶかき陰の わかみどり 茂るいろより 夏はきにけり」
華やかな花が散った後に樹々の陰に萌え出るみどりの瑞々しさ。生命力豊かに緑が茂るところから夏がやって来るのだなあ
第106代_正親町(おおぎまち)天皇基礎情報
生 没 | 1517年6月18日-1593年2月6日 |
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在 位 | 1557年11月17日-1586年12月17日 |
御 父 | 第105代_後奈良天皇(第一皇子) |
御 母 | 藤原栄子 |
諱 | 方仁(みちひと) |
エピソード | 1559年安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受け1560年1月27日に即位の礼を挙げることができた。本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられ、以後、本願寺の権勢が増した。1568年、織田信長は正親町天皇を保護するという大義名分により京都を制圧し、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を用い、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。イエズス会の宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した。1573年頃から信長に存在を疎まれるようになり、譲位を要求されるようになるがそれを最後まで拒んだ。本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのもこのことによる。 |
和歌
「千とせをも 色香にこめて 幾秋か 花にさきいづる 庭の白菊」(『宸翰集』)|
来るべき千年をも色と香に籠めて、これから幾秋かけて花と咲き出ずるのだろう、庭の白菊よ。
第107代_後陽成天皇基礎情報
生 没 | 1571年12月31日- 1617年9月25日 |
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在 位 | 1586年12月17日- 1611年5月9日 |
御 父 | 誠仁親王 |
御 母 | 勧修寺晴子(新上東門院) |
諱 | 初め和仁(かずひと)、1598年に周仁(かたひと)と改めた |
エピソード | 豊臣政権の天下統一から江戸幕府成立の時期で、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、朝廷の威信回復に尽力した。1603年家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれた。朝廷権威の抑制をはかる幕府は武家伝奏を設けて監視態勢を整えた。 1611年退位に反対する幕府を押し切り、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して仙洞御所へ退く。葬儀は火葬で行われた。現在において最後に火葬で葬られた天皇である。 |
月輪陵・後月輪陵内部の陵墓配置図を作ってみた
月輪陵・後月輪陵の内部はどうなっているの?
月輪陵の横の道から、一般の墓地へ向かう道を上っていくと、月輪陵の内部を伺うことができます。
数多くの塔が建てられていて、どれが、どの天皇の陵墓はわかりません。
また、月輪陵・後月輪陵に分かれていますが、どこで区切られているのでしょうか?
そんな疑問を解決してくれたのは、「山陵遙拝帖」です。
「山陵遙拝帖」を参考にGoogle Mapで配置図を作成
大正10年に出版された「山陵遙拝帖」には、月輪陵・後月輪陵の配置図が載っています.
kindai.ndl.go.jp
該当ページはP.289です。
この配置図とGoogle Mapの航空写真を照らし合わせ、敷地内の配置図を作ってみました。
一.第87代_四條天皇
三.第108代_後水尾天皇
五.第109代_明正天皇
六.第110代_後光明天皇
七.第111代_後西天皇
八.第112代_靈元天皇
十.第113代_東山天皇
十二.第114代_中御門天皇
十四.第115代_櫻町天皇
十六.第116代_桃園天皇
十八.第117代_後櫻町天皇
十九.第118代_後桃園天皇
二十一.第119代_光格天皇
一十三.第120代_仁孝天皇
(ナンバリングは、「山陵遙拝帖」の番号に合わせています)
月輪陵と後月輪陵は分かれていない。
後月輪陵に埋葬される、第119代_光格天皇・第120代_仁孝天皇の陵墓は、左上の二十一と右下の二十三です。宮内庁のホームページでは分けていますが、遙拝所・御陵印とも共通であり、敷地内でも月輪陵のほかの天皇陵との違いは写真からはみつけられませんでした。
並び順は空いているところに作っていった?
並び順は、なんとなく空いているところに作っていったような感じに見えます。
大正10年の天皇陵参拝ガイドブック「山陵遙拝帖」は無料で閲覧可能
「山陵遥拝帖」とは
大正10年に山陵崇敬会によって発行された「山陵遥拝帖」は、当時の天皇陵の写真と、それぞれの天皇の実績や陵墓に関する情報が記された書籍です。
白黒写真ではありますが、鮮明な写真なので、当時の様子がよくわかります。
今とほとんど変わらない陵墓もあれば、周囲の環境ががらっと変わってしまった陵墓もあります。
特に、住宅街出現タイプの陵墓は、周囲の雰囲気がまったく違うので、当時の状況がよく伝わってきます。
大正10年当時とのギャップが大きい陵墓
光孝天皇陵
「山陵遥拝帖」のP170に当時の写真があります。
畑の中にぽつんとあります。この後、周辺に住宅が建てられていったのですね。
cynchroniciteen.hateblo.jp
「山陵遥拝帖」はどこで手に入れるの?
古本屋で3,000円~10,000円程度で手に入れることもできるようですが、国立国会図書館のデジタルライブラリーで無料で読めます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966806
倭の五王は誰なのか?に関する本
干支一運60年の天皇紀: 藤原不比等の歴史改作システムを解く
- 作者:順治, 林
- 発売日: 2018/04/25
- メディア: 単行本
感想
冒頭でいきなり倭の五王と倭武の関係についてさらりと触れられていて、筆者の本を初めて読む者にとっては、スムーズに読み進めることができず、読んでは戻るを繰返しながら読み進めました。
歴代天皇については、実在が疑われる天皇がいたり、初代は応神とする説があったり、倭の五王に関するさまざまな説があり、それぞれなるほどなあと読んでいました。古代史は推理の要素が多く、そこが面白いのですが、反面、著者の出身地などからくる思い入れに影響されているのではないかと思われる部分もあり、古代史というよりは、ミステリー小説を読むような感覚で楽しむことが多かったです。
しかし、本書はタイトルにもあるように、干支一運による歴史改作のシステムについて書かれていて、謎解きというよりは、システム解析をしている。
たしかに、中国に対して、日本が長い歴史のある立派な国であると示すために、天皇の在位期間を適当に延ばしたり、実在しない天皇を適当に書き足したりするのは、あまりにも牧歌的で、日本書紀の作者をなめすぎていると思う。
そして、朝鮮半島の歴史と日本の歴史を並列に扱い、干支に注目しながら倭の五王が誰なのか解明しています。
歴史を作った(記述した)人の視点で、何を隠したかったのか、嘘は書かないようにどうごまかしたのか、など、日本書紀編纂の基本的な考え方が見えてくる本です。
何点としては、事例を示しながらとても詳しく書かれているので、ある程度古代史の知識があり、登場人物やさまざまな説を知っていないと、全体感をつかむのが難しいことです。1回読んだだけでは、三割程度の理解しかできませんでした。
筆者の他の本や、紹介されている井原教弼氏や石渡信一郎氏の本も読み、さらに理解を深めたいと思いました。
深草北陵
アクセス
京阪「藤森」下車し、東へ徒歩10分程度。
東山区・伏見区陵墓参拝ルート
月輪陵~伏見桃山陵を参拝した記録です。
cynchroniciteen.hatenablog.com
埋葬者
北朝の後光厳天皇・後円融天皇を含むが埋葬されているため、「深草十二帝陵」とも呼ばれる。
鎌倉時代から室町時代にかけて天皇の系譜が持明院統と大覚寺統に分かれていた時期の、持明院統(北朝)の天皇を中心とする陵墓という見方もできる。