陵墓スタンプラリーの旅

歴代天皇の陵墓の参拝記録です。現在過去の参拝記録を元に日々更新中。

第66代_一條天皇_圓融寺北陵・第73代_堀河天皇_後圓教寺陵




一條天皇基礎情報

生  没 980年7月15日-1011年7月25日
在  位 986年8月1日-1011年7月16日
御  父 第64代円融天皇(第一皇子)
御  母 藤原兼家の娘、詮子
諱    懐仁(やすひと)
エピソード 藤原道隆道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言中宮彰子に仕える紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた時代。一條天皇も文芸に深い関心を示し『本朝文粋』などに詩文が残され、音楽にも堪能で、笛を能くしたという。人柄は温和で好学、また 愛猫家で愛猫に「命婦おとど」と名付け五位の位階を与えていたと、『枕草子』・『小右記』に記述されている。宗教史の面では、北野祭が勅祭として年中行事となり、朝廷の崇敬対象に加えられるなど、菅原道真の怨霊による天神信仰が画期を迎えた。

和歌

「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」(藤原道長御堂関白記』)
「露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」(藤原行成『権記』)
露のようにはかない身の、かりそめの宿である草に、露ならぬ君を残して出塵してしまう(塵を出る、俗世間から離れる、出家する)ことを(今しみじみと)思うのである。

藤原道長は「君」を藤原彰子藤原行成は「君」を藤原定子だと考えていたと解釈されている。
道長の解釈「彰子を残したまま死んでしまうこと悔やんだのだ!」
行成の解釈「成仏しきれてない定子(産後まもなく亡くなった)を残して、自分だけが成仏することを悲しんだのだ!」

堀河天皇基礎情報

生  没 1079年8月8日-1107年8月9日
在  位 1087年1月3日-1107年8月9日
御  父 第72代白河天皇(第二皇子))
御  母 藤原師実の養女・中宮賢子、准母に同母姉媞子内親王
諱    善仁(たるひと)
エピソード 「末代の賢王」と評される賢帝として知ら、関白師通との提携による朝政にも熱心に取り組み、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」(『発心集』)といわれたが、白河院の政務への関与が再び強まると、天皇の興味は趣味の世界に移っていった。和歌にも優れ、1102年には歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を主宰、当時評判の歌人14名に100首の和歌を詠ませた「堀河百首」を編んでいる。勅撰和歌集には『金葉和歌集』などに9首が入集している。

和歌

「千歳まで 折りて見るべき桜花 梢はるかに 咲きそめにけり」(千載611)
梢の遥かな先端まで、花が咲き始めたよ。あなたが千年の将来にわたり手折っては賞美するだろう、桜の花が。

アクセス


JRバス・市バス「竜安寺前」下車し、龍安寺の東にある道を山の方へ進み、山を登る。バス停からは10分程度。
龍安寺の拝観料を払わなくても、龍安寺境内内の道を通り抜けて行くことが可能。

周辺の環境





龍安寺境内の裏山の斜面にある、眺めの良い環境。

道は石畳で整備されていて、山道ではあるが歩きやすい。

おすすめコース

文德天皇 田邑陵・圓融天皇 後村上陵・村上天皇 村上陵・光孝天皇 後田邑陵・宇多天皇 大内山陵・一條天皇 圓融寺北陵・堀河天皇圓教寺陵・後朱雀天皇 圓乘寺陵・後冷泉天皇 圓教寺陵・後三條天皇 圓宗寺陵を、1日でまわったたびブログも参考にしてください。
cynchroniciteen.hatenablog.com

陵墓基礎情報

所在地 京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺
拝観時間 常時拝観可能
タイプ 山の上眺望タイプ
陵形 円丘
陵印保管場所 桃山陵墓監区事務所

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龍安寺 西源院