第59代_宇多天皇_大内山陵
天皇基礎情報
生 没 | 867年6月10日-931年9月3日 |
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在 位 | 887年9月17日-897年8月4日 |
御 父 | 第58代光孝天皇天皇(第七皇子) |
御 母 | 皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘) |
諱 | 定省(さだみ) |
エピソード | 歴代天皇の中で唯一、一度臣籍に下ってから皇籍に戻り即位した。藤原基経が、橘広相が起草した「宜しく阿衡の任を以て卿と為すベし」にいちゃもんを付け、執務放棄した「阿衡の紛議」に耐えた後は、綱紀の粛正、地方支配の再編、年中行事の整備、内裏運営にあたる蔵人所の充実に力を入れた。また、国防強化、遣唐使派遣の検討(断念)など、天皇の強い意志の現れが見られ、後世一連の諸政策を「寛平の治」と高く評価された。菅原道真に対する信任が厚く、藤原時平らの警戒心を刺激した。31才で第一皇子に譲位し、譲位に際しては「寛平御遺誡」を与え、藤原時平・菅原道真を重用するよう諭し、退位後も支配力を保持した。仁和寺で出家し、初めて法皇を称し、30年を過ごした。道真失脚を阻止できなかったことを機に、文化的活動に傾き、名所仏閣への旅行や、歌合わせの開催による和歌の振興、密教の教義に通じ真言宗広沢流の祖となるなど、国風文化展開の出発点に位置する。 |
和歌
「春風の吹かぬ世にだにあらませば心のどかに花は見てまし」(万代集)
春風の吹かない世でさえあったなら、花は心のどかに見ただろうに。
【参考歌】在原業平「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
陵墓比定の経緯
火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされ、所在は早く失われ、江戸時代末になって現在の大内山陵に治定された。
アクセス
JRバス・市バス「御室仁和寺」下車。仁和寺裏の京都聾学校の横の道を北へ向かう。
光孝天皇陵付近から、宇多天皇陵への案内版が所々にあるので併せて参拝するのも良い。