深草北陵
アクセス
京阪「藤森」下車し、東へ徒歩10分程度。
東山区・伏見区陵墓参拝ルート
月輪陵~伏見桃山陵を参拝した記録です。
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埋葬者
北朝の後光厳天皇・後円融天皇を含むが埋葬されているため、「深草十二帝陵」とも呼ばれる。
鎌倉時代から室町時代にかけて天皇の系譜が持明院統と大覚寺統に分かれていた時期の、持明院統(北朝)の天皇を中心とする陵墓という見方もできる。
月輪陵
天皇情報
月輪陵に葬られる以下の12名の天皇の情報は、別途記載予定。
第87代_四條天皇・第108代_後水尾天皇・第109代_明正天皇・第110代_後光明天皇・第111代_後西天皇・第112代_靈元天皇・第113代_東山天皇・第114代_中御門天皇・第115代_櫻町天皇・第116代_桃園天皇・第117代_後櫻町天皇・第118代_後桃園天皇
第122代_明治天皇_伏見桃山陵
天皇基礎情報
生 没 | 1852年11月3日-1912年7月30日 |
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在 位 | 1867年2月13日-1912年7月30日 |
御 父 | 第121代孝明天皇(第二皇子) |
御 母 | 生母は権大納言の中山忠能の娘である中山慶子で嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師・中山邸にて出生 |
諱 | 睦仁(むつひと) |
エピソード | 若い頃には度々地方へ赴き、明治5年~18年にかけて行われた「六大巡幸」では、ほぼ全国各地をくまなくまわり、新しい日本の君主として国民に強く印象づけられた。習志野・大涌谷・新高山は天皇による命名。次第に民衆の前に現れる機会は減り、軍事的なイベントに限られるようになる。全国の学校に天皇の御真影が下賜され、神格化されていく。日清戦争、日露戦争と長年の激務がたたり、糖尿病に腎炎を併発し、61才で崩御。1920年には明治天皇を祭神とする明治神宮が創建され、神となった。天皇の誕生日を祝う天長節は今でも文化の日(11月3日)として残っている。 |
和歌
和歌を好み、93,000首ともいわれる御製を残している。
「うみこえて はるばるきつる 客人に わが山水の けしきみせばや」
海を越えてはるばるやって来てくれた客人に日本のすばらしい山や水の風景を見せたいなあ
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」
四方の海にある国々は、皆兄弟姉妹と思う世に、なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう
東山区・伏見区陵墓参拝ルート
月輪陵~伏見桃山陵を参拝した記録です。
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周辺の環境
桓武天皇陵方面から、森の中を散策しながら向かうのもおすすめ。近隣の住民のランニングやウォーキングコースにもなっている。
遙拝所の東に向かう下り坂があるが、3分程歩くと昭憲皇太后 伏見桃山東陵がある。こちらも、丁寧に管理されている。
周辺スポット
第50代_桓武天皇_柏原陵陵
天皇基礎情報
生 没 | 737年- 806年4月9日 |
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在 位 | 781年4月30日- 806年4月9日 |
御 父 | 第49代光仁天皇天皇(第一皇子) |
御 母 | 生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠 |
諱 | 山部(やまのべ) |
エピソード | 官人の途を歩んでいたが、父白壁王が62才という高齢即位したため、皇后井上内親王、皇太子の他戸親王が廃され、37才で皇太子となる。そこには、藤原不比等の孫の百川、永手、良継らの画策があったと考えられている。皇太子早良親王が無実の罪で淡路配流中に絶命し、その後怨霊の仕業と思われるできごとが続き、長岡京を捨て、平安京へ遷都した。 |
東山区・伏見区陵墓参拝ルート
月輪陵~伏見桃山陵を参拝した記録です。
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第54代_仁明天皇_深草陵
天皇基礎情報
生 没 | 810年-850年5月6日 |
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在 位 | 833年3月22日-850年5月4日 |
御 父 | 第52代嵯峨天皇(第二皇子) |
御 母 | 橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后) |
諱 | 正良(まさら) |
エピソード | 幼少時から病弱で、『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していた。在位中には承和の変が起こり、第二子恒貞親王は廃され、道康親王が立太子した。音楽や和歌、年中行事など、宮廷文化もさまざまな改革が見られた。平安時代前期の女流歌人小野小町が更衣として仕えたともいわれる。 |
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第119代_光格天皇・第120代_仁孝天皇_後月輪陵
第119代_光格天皇基礎情報
生 没 | 1771年9月23日-1840年12月11日 |
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在 位 | 1780年1月1日-1817年5月7日 |
御 父 | 閑院宮典仁親王(第六皇子) |
御 母 | 大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘) |
諱 | 初め師仁(もろひと)と称したが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた |
エピソード | 江戸時代の天皇のなかで、唯一天皇の子として生まれていない。傍系の閑院宮の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。 |
和歌
しきしまの 道は神代の みちなれば いにしへ今に いや榮えつつ
第120代_仁孝天皇基礎情報
生 没 | 1800年3月16日-1846年2月21日 |
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在 位 | 1817年10月31日-1846年2月21日 |
御 父 | 第119代光格天皇(第六皇子) |
御 母 | 実母は勧修寺大納言経逸の女、藤原婧子(東京極院)、養母は後桃園天皇の第一皇女、光格中宮の欣子内親王(新清和院) |
諱 | 諱は恵仁(あやひと) |
エピソード | 皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。崩御の翌1847年、天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。 |
和歌
石見野や 高津のみやに たつ霞 めぐみの春の ひかり見せつゝ
アクセス
JR・京阪・市バス「東福寺」下車し南へ徒歩15分。京阪「鳥羽街道」駅から徒歩10分程度。
泉涌寺大門から入り、右奥に月輪陵・後月輪陵があります。
周辺スポット
第85代_仲恭天皇_九條陵陵
天皇基礎情報
生 没 | 1218年10月30日- 1234年6月18日 |
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在 位 | 1221年5月13日-1221年7月29日 |
御 父 | 第84代順徳天皇天皇(第四皇子) |
御 母 | 九條良経の娘、中宮・立子 |
諱 | 懐成(かねなり) |
エピソード | 生後1か月で立太子し、父の順徳天皇が、祖父の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府執権・北条氏追討の挙兵(承久の乱)に参加するため、1221年に譲位され4歳で践祚した。同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱で北条泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に配流され、在位78日で廃位された。母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、1234年17歳にて崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である |
東山区・伏見区陵墓参拝ルート
月輪陵~伏見桃山陵を参拝した記録です。
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