第69代_後朱雀天皇_圓乘寺陵・ 第70代_後冷泉天皇_圓教寺陵・第71代_後三條天皇_圓宗寺陵
後朱雀天皇基礎情報
生 没 | 1009年12月14日-1045年2月7日 |
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在 位 | 1036年5月15日- 1045年2月5日 |
御 父 | 第66代一条天皇(第三皇子) |
御 母 | 藤原道長女・中宮彰子 |
諱 | 敦良(あつなが) |
エピソード | 19才の時藤原道長が没し、その子・頼道が関白となった。子だからに恵まれた。和歌を好み『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』『俗古今和歌集』『新千載和歌集』に歌が残される。日記『後朱雀天皇宸記』を著した。 |
後冷泉天皇基礎情報
生 没 | 1025年8月28日- 1068年5月22日 |
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在 位 | 1045年2月5日-1068年5月22日 |
御 父 | 第69代後朱雀天皇(第一皇子) |
御 母 | 藤原道長女藤原嬉子、紫式部の娘大弐三位が乳母 |
諱 | 親仁(ちかひと) |
エピソード | 藤原氏の権勢が揺るぎない時代で、関白の藤原頼道を頼りとした。中宮に後一條天皇の皇女・章子、皇后に藤原頼道の娘・寛子(かんし)、藤原教通の娘・歓子がなったが、後継者は産まなかった。陸奥で安部氏が「前九年の役」を起こし、その翌年1052年は仏法で説く末法の世の第一年目にあたっていたことから、社会不安は広がり、1053年に関白藤原頼道が宇治に阿弥陀堂(平等院鳳凰堂)を建立すると、何度も行幸した。『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『新古今和歌集』『玉葉和歌集』などに7首が残る。日記『後冷泉院御記』があったとされるが現存しない。 |
和歌
七月七日、二条院の御方にたてまつらせ給ひける
「逢ふことは たなばたつめに 貸しつれど 渡らまほしき 鵲かささぎの橋」 (後拾遺)
今日は七夕なので逢うことは織姫に貸してしまったけれども、私も鵲の橋を渡ってあなたのもとへ行きたいのです。
後三條天皇基礎情報
生 没 | 1034年9月3日-1073年6月15日 |
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在 位 | 1068年5月22日-1073年1月18日 |
御 父 | 第69代後朱雀天皇天皇(第二皇子) |
御 母 | 三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王 |
諱 | 尊仁(たかひと) |
エピソード | 宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇。後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。1069年には延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し摂関家領が没収される等、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。1070年には絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになる。 |
第66代_一條天皇_圓融寺北陵・第73代_堀河天皇_後圓教寺陵
一條天皇基礎情報
生 没 | 980年7月15日-1011年7月25日 |
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在 位 | 986年8月1日-1011年7月16日 |
御 父 | 第64代円融天皇(第一皇子) |
御 母 | 藤原兼家の娘、詮子 |
諱 | 懐仁(やすひと) |
エピソード | 藤原道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた時代。一條天皇も文芸に深い関心を示し『本朝文粋』などに詩文が残され、音楽にも堪能で、笛を能くしたという。人柄は温和で好学、また 愛猫家で愛猫に「命婦のおとど」と名付け五位の位階を与えていたと、『枕草子』・『小右記』に記述されている。宗教史の面では、北野祭が勅祭として年中行事となり、朝廷の崇敬対象に加えられるなど、菅原道真の怨霊による天神信仰が画期を迎えた。 |
堀河天皇基礎情報
生 没 | 1079年8月8日-1107年8月9日 |
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在 位 | 1087年1月3日-1107年8月9日 |
御 父 | 第72代白河天皇(第二皇子)) |
御 母 | 藤原師実の養女・中宮賢子、准母に同母姉媞子内親王 |
諱 | 善仁(たるひと) |
エピソード | 「末代の賢王」と評される賢帝として知ら、関白師通との提携による朝政にも熱心に取り組み、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」(『発心集』)といわれたが、白河院の政務への関与が再び強まると、天皇の興味は趣味の世界に移っていった。和歌にも優れ、1102年には歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を主宰、当時評判の歌人14名に100首の和歌を詠ませた「堀河百首」を編んでいる。勅撰和歌集には『金葉和歌集』などに9首が入集している。 |
和歌
「千歳まで 折りて見るべき桜花 梢はるかに 咲きそめにけり」(千載611)
梢の遥かな先端まで、花が咲き始めたよ。あなたが千年の将来にわたり手折っては賞美するだろう、桜の花が。
第59代_宇多天皇_大内山陵
天皇基礎情報
生 没 | 867年6月10日-931年9月3日 |
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在 位 | 887年9月17日-897年8月4日 |
御 父 | 第58代光孝天皇天皇(第七皇子) |
御 母 | 皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘) |
諱 | 定省(さだみ) |
エピソード | 歴代天皇の中で唯一、一度臣籍に下ってから皇籍に戻り即位した。藤原基経が、橘広相が起草した「宜しく阿衡の任を以て卿と為すベし」にいちゃもんを付け、執務放棄した「阿衡の紛議」に耐えた後は、綱紀の粛正、地方支配の再編、年中行事の整備、内裏運営にあたる蔵人所の充実に力を入れた。また、国防強化、遣唐使派遣の検討(断念)など、天皇の強い意志の現れが見られ、後世一連の諸政策を「寛平の治」と高く評価された。菅原道真に対する信任が厚く、藤原時平らの警戒心を刺激した。31才で第一皇子に譲位し、譲位に際しては「寛平御遺誡」を与え、藤原時平・菅原道真を重用するよう諭し、退位後も支配力を保持した。仁和寺で出家し、初めて法皇を称し、30年を過ごした。道真失脚を阻止できなかったことを機に、文化的活動に傾き、名所仏閣への旅行や、歌合わせの開催による和歌の振興、密教の教義に通じ真言宗広沢流の祖となるなど、国風文化展開の出発点に位置する。 |
和歌
「春風の吹かぬ世にだにあらませば心のどかに花は見てまし」(万代集)
春風の吹かない世でさえあったなら、花は心のどかに見ただろうに。
【参考歌】在原業平「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
陵墓比定の経緯
火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされ、所在は早く失われ、江戸時代末になって現在の大内山陵に治定された。
アクセス
JRバス・市バス「御室仁和寺」下車。仁和寺裏の京都聾学校の横の道を北へ向かう。
光孝天皇陵付近から、宇多天皇陵への案内版が所々にあるので併せて参拝するのも良い。
第58代_光孝天皇_後田邑陵
天皇基礎情報
生 没 | 830年- 887年9月17日 |
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在 位 | 884年2月5日-887年9月17日 |
御 父 | 第54代仁明天皇(第三皇子) |
御 母 | 藤原総継の娘・贈皇太后沢子 |
諱 | 時康(ときやす) |
エピソード | 陽成天皇が母方の叔父である藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。即位前には、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任。和歌・和琴などに秀で、桓武天皇の先例にならい鷹狩を復活させた。親王時代に相撲司別当を務めていた関係から、即位後相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向し、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」や仁和寺創建に継承されることになる。 |
和歌
「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」
あなたのために、春の野に出て若菜を摘んでいる私の袖に、雪が降りかかってきております。
第62代_村上天皇_村上陵
天皇基礎情報
生 没 | 926年7月14日-967年7月5日 |
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在 位 | 946年5月23日-967年7月5日 |
御 父 | 第60代醍醐天皇天皇(第十四皇子) |
御 母 | 藤原基経の娘穏子 |
諱 | 成明(なりあきら) |
エピソード | 即位当初は藤原忠平が関白を務めたが、忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。国司の功績や官人の勤務成績を厳格に評価したり、平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)で逼迫した朝廷の財政の健全化を目的に倹約に努めた。後醍醐天皇とともに、延喜・天暦の治と聖代視された。 |
第64代_圓融天皇_後村上陵
天皇基礎情報
生 没 | 959年4月12日-991年3月1 |
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在 位 | 969年9月27日- 984年9月24日 |
御 父 | 第62代村上天皇(第五皇子) |
御 母 | 右大臣藤原師輔の娘・中宮安子 |
諱 | 守平(もりひら) |
エピソード | 藤原氏の権勢が確立しつつあった時期に11才で即位し、在位中には、関白・藤原兼通や兼家が出世を競い合うように政治を牛耳っていた。退位し、上皇になってからは花山・一条両朝の政治に口を挟み、上皇としての政治的権限を保持した。 |
第55代_文徳天皇_田邑陵
天皇基礎情報
生 没 | 827年8月- 858年10月7日 |
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在 位 | :850年5月4日- 858年10月7日 |
御 父 | 第54代仁明天皇(第一皇子) |
御 母 | 皇太后・順子(左大臣・藤原冬嗣の娘) |
諱 | 道康(みちやす) |
エピソード | 承和の変で皇太子・恒貞親王が廃され、伯父・藤原良房に推され立太子した。文徳天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子惟喬(これたか)親王*1を皇太子としたかったが、良房の娘・明子(あきらけいこ)が第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだため、惟仁親王が生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。文徳天皇は、一度も内裏正殿を居住の間として生活をすることがなく、自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半の摂関政治など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。 |